1667年に外科医の息子としてシャンパンで有名なフランスのマルヌ県に生まれました。幼少の頃は家族がユグノープロテスタン一員であり、その背景からか特別頭の良い子ではありませんでした。これが原因で18歳の時にカトリック国家のフランスからイギリスのロンドンへ亡命を果たしました。
ド・モアブルは新しい環境で新たな人生を追求しましたが、富と名声はいつも手に入れられませんでした。彼はフランスの大学を卒業できなかったにも関わらず、サー・イザック・ニュートンやエドモンド・ハレー率いる有名な会社に入り、彼等とも友達関係を築いていきました。
幼いアブラームはフランスの学校での業績など何も達成していませんでしたが、大人になるにつれ勉強に魅かれていきました。彼は次第に論理学に惹かれゲームの確率等に興味を持ち始めました。彼の代表作「Doctrine of Chances」は彼の死後、今日まで様々な数学者がアイデアや研究を重ねてきました。彼の本は「ギャンブラーハンドブック」とも呼ばれ、これは彼の確率論への研究が報われ1697年に特別な名誉として英国王国協会に授与されました。
皮肉屋達は彼の確率論をギャンブルに使った方が良いと提案しましたが、彼はそれそ拒否し余生は貧乏な生活を送っていました。彼はロンドンにあるSlaughter Coffee Houseと言う場所で確率などに程遠いチェス等をしていました。
ド・モアブルの伝説はこれだけではありません。彼は自分が毎日15分多く寝ているのに気づき自分の死を1754年の11月27日と予言しその日に87歳と言う年齢でこの世を去りました。